●『記憶の澱』by masayon(蛭魔×マルコ パラレル) - 2/3

さて、これからどうしたものか――まずは状況を確認しなければならないし、己の身体がどの程度動くのかを確かめねばならない。治療を施されているということは、当面すぐに身の危険はないだろうが、用心に越したことはない。
とは言うものの、兎にも角にも喉が渇く。まずはこれをどうにかしないことには。
ホテルならば、恐らくバスルームくらいはあるはずだ。この際生水でも、口をゆすぐくらいはしたい。或いは、冷蔵庫に何か飲む物が入っているかもしれぬ。さて、この点滴類をぶら下げて行くか引き抜いてやったものか、と思案しながら身体を起こそうと腹筋に力を入れたところで、蛭魔は自身のベッドの足元に人影を認めて動きを止めた。

マルコであった。
蛭魔の肩口を何のためらいもなく撃ち抜いた、気の短いハーフイタリアンの若者は、蛭魔の寝ているベッドの端に腰掛けて、船をこいでいるらしかった。今の今までその存在にまったく気づかなかった己の注意力の散漫に、蛭魔は舌打ちを辛うじて堪える。まあ、恐らく熱もあるのだろうし、鎮静剤なりの薬物の投与もあろう。それにしても――相手が眠っているにしろ――同じ部屋に他の人間がいることに気づかないというのは、人の気配に敏感な蛭魔妖一という男にしては珍しいことだった。

喉を潤したいのはやまやまだが、目の前の男を起こしてしまうことが煩わしく思えて、蛭魔は一旦起こしかけた頭を再び枕に沈める。そうして、深く俯いてこくりこくりと揺れている、その横顔を見た。つるりとした額から、西洋人らしい、整った鼻梁。頬に睫毛の影が落ちる。閉じられた瞼の内側、碧の瞳。晴れた日の湖水のような、明るい、輝くようなあおのいろ。

まるで蛭魔のその視線を感じ取ったように、ぴくり、とマルコの身体が震えて、隠れていた碧がこちらを見た。
「ああ――気がついた?」
溜め息のように吐き出された言葉は幾分掠れていて、ゆっくりと立ち上がってどこかへと歩み去る後姿にもわずかだが疲労が滲んでいた。視界から消えたマルコの名残を目で追いながら、蛭魔はなんとも言えぬ違和感を感じる。マルコは、こういった表情をする男であったか――だが、現在の己の判断力が平素に比べてどの程度落ちているのか、まともなのか、測る術はない。この違和感が、高熱と傷の痛みのもたらしたものでないとは言い切れぬ。分析をしたところで、そもそも基礎データが間違っていては何の意味もない。
どこへ行ったのか分からぬが、マルコも起きてしまったことだし、兎に角この酷い渇きをどうにかしなくては、と、再度身体を起こしかけたところで、マルコが戻ってきた。手には、トレイに載った水差しとグラス。
「ああ。ちょい待って」
言いながらそれらをサイドテーブルに置いて、蛭魔の背に手を添えて起き上がらせ、背中に枕を入れて支える。その動作は手馴れていて、つまり、負傷者の面倒を見る状況などは珍しくもないのだろう。
「水、飲むだろ?」
と、グラスに注いで差し出された水を一気に飲み干すと、勢い余ってそれは口の端から喉を伝って胸のあたりまで盛大に零れ、挙句の果てには飲み下す先までも見当が狂ったらしく、気管に入って、蛭魔は盛大にむせた。
「ちょ……落ち着いて飲めっちゅう話だよ。誤嚥で死なれでもしたら、手当てした甲斐がねえっちゅう話」
言いながら、気を遣ってか背中を叩いてくれるのはいいのだが、これが結構傷に響く。文句のひとつも言いたくとも、こうむせていては話にならない。何度か咳払いをして呼吸を落ち着け、無言でグラスを突き出して二杯目を所望すると、マルコは
「今度はむせんなっちゅう話だよ」
と言いながら注いでくれた。今度はゆっくりと、慎重に飲み干す。喉を通る冷たい水は、身体にしみわたるように美味かった。

マルコは、無言でヒル魔がグラスを干すところを見つめていたが、飲み終わった空のグラスを受け取りながら、
「あんた、気づいてないだろうけど、寝始めてから今日で丸四日経ってんだぜ? 看病する方の身にもなれっちゅう話」
と、溜め息混じりに肩をすくめた。
「知るか。頼んでねぇ」
即座に切り捨てながら、さすがの蛭魔も肝を冷やした。マフィアの『急所は外してある』は、所詮、『即死はしない』という程度の意味であって『命に関わる傷ではない』ということではないのだ、と。そんなことは、15年前のあの時にいやというほど思い知っていた筈なのに。蛭魔妖一ともあろうものが、同じ局面で二度も死にかけるとは、とんだ醜態だ。

蛭魔のそんな内心を知ってか知らずか、マルコは、下がり気味の眉を寄せて、やわらかに苦笑する。
「まあ、ね。俺も、あんた自体はどうでも良かったんだけど。あんたの持ってるっちゅう情報は、確かに俺には魅力的だからさ。つまり、当面俺はあんたに死なれちゃ困るっちゅう話」
その、隠し切れぬ疲労の滲む表情を。そして、今までの言葉を。
繋ぎ合わせると、どうやら、マルコは丸四日、ずっと蛭魔に付き添っていた、ということのようだった。ろくに睡眠も取らずに、蛭魔を――というよりは、蛭魔の大脳に仕舞われた「マルディーニ商会の裏帳簿」を案じて見守る姿を想像すると、蛭魔の喉元に、渇きではない、言い難い不快感がせり上がる。それは――怒り、或いは、嫉妬にも似た、何か。例えば、どんなに手を尽くしてもあらゆる策を講じても、二度と手繰り寄せることの出来ぬ、過ぎてしまった時間というものを思う時のような、獰猛な絶望感。喉元の、その、限りなく不愉快な味を飲み下して、蛭魔は、けれど、ニヤリ、と笑みを己が頬に貼り付ける。
「ケケケ! テメーで撃っといてテメーで看病してりゃ世話ねぇな糞ヘタクソ。致命傷にならねえ射撃のレッスンがご要望なら安くしとくぞ?」
「はぁ!? こっちはプロだぜ? 言っとくけど普通は撃った時点で始末するのが前提だっちゅう話! 手傷のある相手泳がしといたってロクなことになりゃしねえし。わ・ざ・と! やってんの。とどめささなくてもどのみち死ぬように、ね」
「せいぜいほざきやがれ。テメーの射撃の腕も脳みそも、結局15年前から成長してねえっつーこった」
「――それ、どういう……?」
『15年前』という単語に、マルコの目が、すう、と眇められる。
酷く冷徹な、それでいて、何一つ逃すまいと必死な、二律背反を宿した瞳。あかるくかがやく湖水の色。

「15年前、ラクィッラ。テメーは覚えちゃいねえだろうが、あん時テメーは、東洋人のガキを撃った。それが俺だ」
「覚えてるよ」
驚いたように。
湖水の色の瞳が見開かれて、ああ、同じだ、と蛭魔は思う。
「あんたが、あの――いや、そんなことってあるか――? 偶然にしちゃ出来過ぎでしょーよ」