●『記憶の澱』by masayon(蛭魔×マルコ パラレル) - 1/3

※『既視感』の続きです。

路地裏から、路地裏へ、駆ける。
大通りへ出るべきか、という考えが、0.2秒ほど蛭魔の頭をかすめたが、即座に自ら否定する。この国の警察とマフィアは夫婦みたいなものだから、ただ、人目があるところへ逃げたって駄目だ。ただの人目ではなくて、例えば外国人だとか、或いは要人。そういったものの目に触れる場所なら、奴らも滅多な手出しは出来ないし、出来たとしてもマスコミが騒ぐ。少なくとも、自分の存在自体が、なかったこととして闇に葬り去られる可能性は低くなる。観光客がいるところ、騒ぎになりそうなところ――そう、確か、2ブロックほど先に、ガイドブックに載るような比較的大きな教会が。ロスのない最短距離を行くべきだ。そこの角を、曲がって。
と。

パァン!

至近の銃声に、さすがに蛭魔の足が止まる。
「動かない方がいいよ。次は当てるっちゅう話」
耳を、疑った。
それは、甲高い――そう、まるで、子供の声だったから。
思わず、警告を無視して、蛭魔は振り返ってしまった。

パァン!

もうひとつ、銃声。
そして、振り向いた先に居たのは、いかにもマフィアでござい、といった風体の三人の男と、
――やはり、蛭魔と年の頃も変わらないだろう、少年。
「動くな、って言っただろ?」

その、少年は、

今にも泣き出しそうに、蛭魔には、見えた。

何故なのかは解らない。
彼は、幼い頬に軽い笑みすら浮かべていて、その湖水を湛えたような瞳は、揺れもせずまっすぐに蛭魔の方を見ていて、年のころに似合わぬほどに落ち着いた立ち居振る舞いも、いっそ冷酷なほどの声音も、何も、何一つ、哀しみや、不安や、苦痛や、そんなものを感じさせる要素なんてなかったのに。それでも何故か、蛭魔には、彼が必死に泣き出すのを堪えているように見えて仕方がなかった。

「急所は、外してあるよ。運がよければ、死なないで済むっちゅう話」
おそろしくクラシックな趣味のスミス&ウエッソン。
銃口から、まだうっすらと白煙が立ちのぼっている。

自分が、撃たれたのだ、と。
この少年が撃ったのだ、と。
理解するまでに、一瞬、間が空いて、次いで脇腹の激痛を知覚する。意志とは無関係に膝が笑う。ああ、畜生、なんつーザマだ。内心で己自身に毒づいて、舌打ちをする。膝が笑う。ああ、この目の前の少年は、発砲後の衝撃にも微動だにせず耐えているというのに。己は、このザマだ。
どくどくと痛みに全身が脈打つ。それでも、どうにか、口の端を引き上げるくらいはしてみせる。
「ケケケ! イタリアのマフィア様は随分とお優しいこって!」
軽口を叩いてみせると、少年は酷く綺麗に微笑んだ。そして、
「あんたなんか、生きようが死のうがどうでもいいっちゅう話だよ」
と、綺麗に微笑んだままで、冷酷に言い放った。

宗教画の天使みたいに、あどけない無垢な表情なのに、
やっぱりそれは蛭魔には、
泣くのを我慢しているようにしか見えなかったから。

「なら、なんでテメーは泣いてんだ?」
考えるより先に、
口に出していた。

刹那、
少年の瞳が、まるく見開かれ、
口元は、今にも何かを言い出しそうに、震える。

その、まるく見開かれた湖水の色に吸い寄せられるようにして、
ああ、やっぱりこいつは泣きそうだったのだ、と、
痛みに朦朧とする頭で、蛭魔は何故か納得した。

瞬時の驚きの表情が、すぐにまた、元の天使の笑顔に綺麗に覆われるのを、
そして、そのまま無言で少年がくるりと自分に背を向けるのを、
蛭魔は、痛ましいような気持ちで見送る。
あの、刹那の、驚いたような瞳を。
一瞬だけ、湖水に浮かんださざ波のような揺らぎを。
もっと、見ていたかったのに。
ああ、行ってしまう――

自分の方こそ、何か、少しだけ泣きたいような気持ちになって、目覚めた。
厭な夢をみたものだ、と思い、それから、それが夢ではなくて、単なる過去の記憶だということを思い出す。蛭魔妖一の、少しばかり性能の良すぎる記憶装置は、その時の音や色、自身の感情までもを鮮やかに再現するので、何年も経った今でも、その場面は未だに色褪せることなく脳内に居座り続け、折々にこうして夢の姿をとって意識の水面上に浮かび上がってくる。

円子令司。
あの時、蛭魔を何のためらいもなく撃った少年は、時を経て、また、蛭魔を撃った。
同じような台詞まで吐いて。

そうだ、
撃たれた。

意識した途端、じわりじわりと痛覚が主張を始める。身体感覚は未だ彼岸と此岸の間をたゆとうていて、撃たれたところ、というよりも、全身が、みしみしと音を立てて軋むようだ。己の身体が己のものでないような、酷い倦怠感。
それにしても厭に暗い――と、思ったところで、蛭魔は初めて、自分の瞼が閉じているのだと気づいた。それは、暗いに決まっている。なら簡単なことだ、目を開ければいい、と思ったものの、たかだか目を開ける、というそんな他愛のない動作ひとつが、おそろしく大儀なのだ。錠でも下ろしたかのように重い瞼は、力を入れようと試みてもびくともしなかった。思わず舌打ちをしようとして、だがそれすらままならない。瞼といわず、手足も、何も、所有者である蛭魔の意のままにならない。息を吸って吐くだけでも、体力を削られるような心地がする。それでも、どうにか重い瞼を押し上げることに成功すると、曖昧模糊とした世界が、かろうじていくばくかの光を得る。
兎に角、酷く喉が渇いていた。舌が口蓋に貼りついている。ゆるゆると身体の感覚が戻って来るにつれ、全身に散らばっていた鈍痛が、右肩の内側に収束されてゆく。脈打って疼くような痛み。

そうだ、撃たれた――視線と思考の焦点を縒り合わせつつ、蛭魔は記憶を遡る。あのバーを出て、マルコの運転で、ひどく時代がかったホテルの一室に着いたところまでは覚えているが、気が緩んだのかそれから先の記憶がない。徐々に明瞭になってきた視野に映るのは、低く薄暗い天井や、骨董品のようなシーリングファンで、どうやらまだ同じホテルの部屋にいるらしいことが判った。

それにしても、あの糞睫毛、気が短ェ――そう内心毒づきながらゆるゆると首を巡らすと、己の右腕からは2本の管がのびていて、点滴らしい袋に繋がっており、その袋たちはご丁寧に壁の洋服掛けらしいフックに吊り下げられている。どう見ても病院には見えぬが、つまり、こういう連中は、こういったところで治療を受けるものだということなのだろう。むしろ、予想外に行き届いた治療がなされているらしいことにこそ、蛭魔は驚嘆していた。なにしろ、危ない橋ならばちょくちょく渡ったが、ここまでマフィアの内部に入り込んだことは今までなかったのだ。
そもそも、蛭魔妖一という人間は、目的のためには危険を冒すことも厭わぬ性質ではあったが、わざわざ好きこのんで危険に身を晒すほどに酔狂な性格でもない。リスクを背負う場合にはそれ相応の備えをしたし、何も考えずに無駄に身命を懸ける輩は馬鹿だと思っている。であればこそ、マフィア絡みの取り引きなども経験をしつつも、情報の遣り取りだけですませ、深入りせず、深追いされることもせず、謎めいた存在という付加価値までつけて、今まで身の安全を保ってくることができたのだ。それが、この体たらく――駆け引きには自信があったし、マルコが撃って来る可能性も計算に入れていた。それでも、最後、マルコがあのタイミングで挑発にのってこなければ、或いは今頃蛭魔の心臓は動いていなかったかも知れなかった。まったく――我ながら、尋常ではない、と思う。尋常なアタマでは、こんなことは思いつきもしないだろう。それもこれも、あの、円子令司のせいだ。15年前の、湖水のような瞳のせいだ。