●『THE CHESS』by masayon(クリフォード×ヒル魔) - 1/2

クリフォード×ヒル魔アンソロジー『Love Game』様寄稿作品の再録

1. -side Clifford- $1.75 revenge

ワールドカップが終わった。
決勝戦、延長タイブレークの結果は、僅かに一点差――タッチダウン後のボーナスゲーム、キック一本の差で、アメリカの勝利。月桂樹の冠は、パトリック・スペンサーの頭上に。

祝勝会と、参加各国のフェアウエルパーティを兼ねた華やかな宴も日付が変わる頃にはおひらきとなり、疲弊しきった肉体と、まだ高揚する精神を携えて殆どの選手たちが自室のベッドへと転がり込む時分――クリフォードは、エスプレッソマシーンのコーヒーを求めて、ロビー階へと下りて来ていた。
無論、クリフォードの身体にも疲労はある。光速の移動砲台、というのが持ち味であるから、一般的なQBと比ベれば自分で持って走る率も高いし、よって運動量も多い。明日の朝にはサウスベンドへの飛行機に乗る身であれば、僅かでも身体を休めるベきなのは百も承知なのだが、一度脳内で、ここのロビーの安っぽいエスプレッソの香りを思い浮かベてしまったら、どうにも飲まないでは気が済まぬ。

クリフォード・D・ルイスは、そういった類いの人間だ。
手に入れたいと、一瞬でも脳裏に思い描けば、手に入れずには済まさない。
それが、深夜のエスプレッソコーヒーのような些細なものであれ、高校アメフト最強の地位といった輝かしい栄光であれ。価値に優劣はない。そこに到る道が困難であろうが平易であろうが関係ない。欲望が己の中に生まれれば、ただ、それを満たす――それが、クリフォードのやり方なのだ。
幸い、才能には恵まれている。
彼は自分の才を過大評価して驕ることは決してしないが、謙遜の美徳というものもまた信じていなかった。公正に評価をしても彼の才はずば抜けていたし、それを前面に押し出すことで勝負を己の有利に運ぶことが出来る。
アメフト選手として優れた身体的能力を有している、というだけでなく、勝負師としての抜群の頭脳をも持ち合わせているクリフォードにとっては、フィールドの上も、それ以外の世界も、いわば広大なギャンブル卓のようなものである。一瞬一瞬変わり行く状況を読み、相手の心理を操り、強気で攻めて攻めて攻めて相手の選択肢を奪って追い込んだところで裏をかく。そうやって、大抵のものは手に入れてきた。努力を惜しまぬ天賦の才の持ち主には、世界というものは易しい。

だが。
つい近い過去に、手に入れるつもりで手に入れ損ねたモノ。

それを、エスプレッソマシーンの手前、ロビーのソファに見つけて、クリフォードは己の眉がほんの僅かに寄るのを自覚した。後ろ頭ではあるが、判る。生まれつきのものではない、わざわざ人工的に色を抜いた金髪。それを、重力に逆らうように尖らせたシルエット。日本チームの司令塔。

フィールドでは、確かに勝った。
だが、カジノでこの男のチップを奪い損ねた屈辱は、まだクリフォードの中で鮮やかだ。

『甘く見ていた』――恐らく、最大の敗因はそれだ。
向こうとて、こちらの実力を、最初から正確に測っていた訳ではあるまい。
けれども、ゲームそのものの勝敗で負けた訳ではなくとも、ヒル魔のチップを奪えなかったことはクリフォードにとっては「敗北」であり、奪われることを回避したのはヒル魔の才覚だ。

横を通り過ぎざまに視線を遣れば、ロビーの落とした照明の中、似非ブロンドの男はコーヒーの紙カップをソファの肘掛けに置いて、クリフォードの位置からは反対側、窓の外の方へと顔を向けていた。眠っている訳ではないようだが、こちらの気配への反応もない。だが、気づいていないのだとは思わなかった。判っていて――しかも、恐らく、それがクリフォードであるとまで感づいていて、その上で、言葉をかける必要がないと判断したのだろう。まあ、特段話すようなこともないのは事実であるが、舐められているのだ、と取れぬこともない。

刹那。
衝動的に、この男を殺したい、という欲望が、クリフォードの中に湧く。
無論、生命を絶つという意味ではない。
カジノで殺し損ねた、リベンジマッチを。
今度こそ、完膚なきまでの勝利を。

「おい、青二才(サニー)」
エスプレッソマシーンの抽出ボタンを押しながら。
豆を挽く騒音の中でも、きっと、この男の尖った耳は、自分の声を拾う――何故かそんな妙な確信で、そう呼びかけると、
「ケケケ! 興奮して寝付ねェたァ、アメリカの司令塔サマは小学生並みだな」
と、すぐさま軽口が返る。この相手の場合は、返答の内容ではない、返事があることそのものが重要なのだと、ここ一両日での分析結果がクリフォードに告げる。即ち、向こうはこちらの動向に関心を寄せている。
だから。
「ポーン。d4」
勝負を投げる。
「――ナイト。f6。いきなり何のつもりだ」

相変わらず窓の外の闇に顔を向けたまま、ちらりと視線だけ寄越す。何のつもりだと言いつつもしっかりとこちらの意図を汲んで返して来る。ああ、そうだ。やはり、この男ならば、叩きのめし甲斐がある。
「お前のチップをまだ巻き上げてねえからな。こっちが勝ったらコレはお前の奢りだ青二才(サニー)。ポーン。c4」
コレ、と、今抽出の終わったばかりのエスプレッソの紙カップを掲げてみせる。1ドル75セント、安っぽい豆の香り。けれども数万ドルだろうが、2ドル足らずだろうが、クリフォードにとってさしたる違いはない。金が欲しいのではない。欲しいのはヒル魔妖一から奪う完膚なき勝利だ。
「こっちが勝った時の条件は? ――ポーン。e6」
「お前の好きに決めていいぜ。どうせこっちが勝つからな。ナイト。c3」
「――乗った!」
にやあ、と。
鋭い前歯をむき出しにして、ヒル魔は満面の笑みを浮かベた。
己の紙カップを掴むと、ソファから立ち上がり、クリフォードの前に歩み寄る。鼻先僅か20センチほど。意図的に侵すパーソナルエリアは、威圧であり、策だ。そのような手に乗るクリフォードではなく、きっとヒル魔もそれは心得ているはずだが、それでもやるだけはやる、というのがきっとこの男のスタンスなのであろう。
「日米大学親善試合。ノートルダム大の一軍メンバーと、日本の大学選抜で、時期は二年後、場所は日本だ」
「――馬鹿かお前。俺にそんな権限があるわけねえだろ。モーガンにでも頼むんだな」
「ア? 誰がテメーにやれっつったんだ。そのおつむは何のためについてんだよクリフォードセンセー。やらせるように仕向けんのがテメーの仕事だろーが。まさか出来ねえとは言わねえよなァ?」
更に顔と顔の距離が縮まる。
チェシャ猫みたいなにやにや笑い。
挑発だ、そう、解っていながら、クリフォードのプライドが刺激される。チェスで何十手も先を読むように、頭の中、瞬時にシミュレートが行われる。あの男を煽って、あの組織を動かして。学長と縁故のある人物。アメフト部のOB。日本と繋がりの強い者。財源。情報操作。遥か遙か向こうの仕掛けに向かって繋がる、巧妙なドミノ倒しの連なり。

「テメーのリベンジマッチに付き合ってやってんだ、勝ったらこっちにもリベンジくれえさせやがれ」
至近距離の顔は目線を外さない。
完全に、クリフォードがそれを出来ると、確信している表情だ。
「――いいぜ。まあ、負けねえから関係ねえけどな」
「YA――HA――!!! 交渉成立だ! ビショップ。b4だ」
キスでもしそうな距離から一気にくるりと身体を反転させて、雄叫びを上げる、その尖った背中を見ていたら、何か無性に泣かせてやりたくなった。

あの、吊りあがった眦(まなじり)に屈辱の涙が浮かぶのを。
薄い唇が、悔しさに噛みしめられるのを、
見たい、という、抗いがたい欲求。

ああ、あの拳が、遣る方ない憤懣に震える様を見れば、どれほどに爽快だろうか!

ヒル魔ときたら、勝負に臨んで、負けるなどと微塵も考えていない。もう既に、リベンジの権利を手に入れた気になっている。そんな輩はいくらでも見て来たし、その身の程知らずな鼻先を片っ端から叩き折って来た。だから、別に珍しいことではない。
その筈なのに。
どうにも嗜虐心が刺激されてならないのは、

カジノで勝てなかったからか。
それとも、決勝戦、たった一点差というきわどい勝利のためか。

解らぬが、兎も角。

「ポーン。e3」
クリフォードの頬に、僅か、ほんの僅かに、覚えず、笑みが上る。この生意気な青二才を――どんなふうに、徹底的に叩きのめしてやろうか、と思う。
チェスがこんなに愉しいのは久しぶりだった。